Nobuyoshi Moriyama

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写真家が書く物語 -写真を言語化するということ-

写真家が書く物語

こんにちは、@_nobu2です。写真家・フォトグラファーの中には、小説やノンフィクションなどの文字が主体の本を出している人もいますよね。

この、自分の写真を言語化できるようにすることは、見る人に自分の写真を伝える上でとても重要なことなのです。なぜ撮ったのか、写真のバックグラウンドには何があるのかを説明できれば、自分の写真に主体性が生まれるからです。

それでは、写真家・フォトグラファーが書く物語をストリートフォトグラフィ、ネイチャーフォトグラフィ、報道写真というジャンル別に紹介していきますね。

 

▼ストリートフォトグラフィ

荒木経惟「写真への旅」

写真への旅 (光文社文庫)

写真への旅 (光文社文庫)

 

1976年に朝日ソノラマから刊行された「現代カメラ新書13 写真への旅」を再編集したもの。

1963年、電通に入社。1964年、写真集「さっちん」発表。1971年、青木陽子さんと結婚。写真集「センチメンタルな旅」発表。1972年、電通を退社。1974年、森山大道らとともに「WORKSHOP 写真学校」の設立に参加。その後の1976年に出されたのが「写真への旅」です。

生い立ちはもちろん、女性との感傷記、ダイアン・アーバスやアジェへの愛、その他数々の写真家のこと、イコンタ、「私」論についてこれでもかと書かれています。

圧巻は、1975年、「アサヒカメラ」に連載された「荒木経惟の実戦写真教室」が掲載されていること。そこで発せられた言葉の一つ一つがとてつもないので、いくつか紹介します。

『偽アマチュア集団影法師は、EEカメラにネガカラーをつめて、正月の晴れ着の娘を撮るパパや、恋人といっしょにセルフタイマーで撮ろうとしている青年、とは違うんだと思いあがっているのだろうか。影法師なんざ、とうてい、あのパパや恋人たちにはかなわない』

『恋は、写真への初歩であり、人生への初歩でもあるのだ。まず恋をしよう、そしてカメラを買って、フィルムをつめて、野原や林の中で、記念写真を撮ろう。すこし上達したら、恋人の部屋で、そしてラブホテルで。ああ、楽しきかな「恋の時間」-。』

 

森山大道遠野物語

遠野物語 (光文社文庫)

遠野物語 (光文社文庫)

 

「写真への旅」と同じく、1976年に朝日ソノラマから刊行された「現代カメラ新書26 遠野物語」を再編集したもの。

1962年、細江英公の助手。1966年、中平卓馬と共同事務所を開設。1967年、「にっぽん劇場」発表。1968年、雑誌「プロヴォーグ」参加。1970年、「プロヴォーグ」解散。そのプロヴォーグが解散し、ふるさとを持たない森山大道が辿り着いたのが遠野であり、初の写真展が「遠野物語」。

安住の地、新宿をまだ探せていない、彷徨い歩く森山大道がここにあります。

まあ、一度落ちている人の言葉は重いものがあるので、少し紹介しますね。

『僕のように実際に帰るという意味での「ふるさと」などどこにもなく、ただただ恋を恋するがごとく、いい年をして甘ったれて、イメージの「ふるさと」を追い求めている者にとっては、「ふるさと」って、きっと幼時からの無数の記憶のなかから、さまざまな断片をつなぎあわせてふくらませた、あるユートピアというか、「原景」なんじゃないかって自分では思うわけです。そんな僕の「ふるさと」像の具現というか仮構の場所として、僕にはやはり遠野へのこだわりが抜きさしならずあったと言うほかないわけです。』

 

▼ネイチャーフォトグラフィ

星野道夫旅をする木

旅をする木 (文春文庫)

旅をする木 (文春文庫)

 

生前最後の一冊。写真絵本「ナヌークの贈りもの」「森へ」が出る前の一冊。

アラスカとの出会い、インディアンとの暮らし、自然のこと、木のこと、動物のこと。

短めの散文で纏められているので、まさしく旅の友におすすめ。

アラスカはおろか北海道でさえ遠い人がほとんどですが、世界は自分の住んでいるここだけじゃないと思えれば、楽になることを教えてくれるこの言葉につきますね。

『ある日の夕暮れ、ザトウクジラの群れに出会った。ぼくたちは、小さな船で、潮を吹き上げながら進むクジラのあとをゆっくりと追っていた。

その時である。突然、一頭のクジラが目の前の海面から飛び上がったのだ。巨体は空へ飛び立つように宙へ舞い上がり、一瞬止まったかと思うと、そのままゆっくりと落下しながら海を爆発させていった。それは、映画のスローモーションを見ているような壮大なシーンだった。

ぼくたちが毎日を生きている同じ瞬間、もうひとつの時間が、確実に、ゆったりと流れている。日々の暮らしの中で、心の片隅にそのことを意識できるかどうか、それは、天と地の差ほど大きい。』

 

石川直樹「最後の冒険家」

最後の冒険家 (集英社文庫)

最後の冒険家 (集英社文庫)

 

熱気球による太平洋横断の途上で消息を絶った神田道夫との4年半。神田道夫との出会い。気球とは何か。最初にして最後の熱気球太平洋横断の挑戦。石川直樹は危険だとわかっていた、神田道夫単独での熱気球太平洋横断。そして気球のゴンドラとの再会。

石川直樹は冒険という言葉をしばしば嫌うが、最後の冒険家に向けられたこの言葉にはグッとくるものがありますね。

『「海に着水してもこれなら浮かんでいられるから」

そう何気なく言っていた神田の顔を思い出す。確かにゴンドラは4年半ものあいだ、海の上を漂っていた。このゴンドラは、神田があらゆる事態を想定し、計算したうえで設計したもので、それらが間違っていなかったという一つの証左にもなるだろう。

「絶対に成功するとわかっていたら、それは冒険じゃない。でも、成功するという確信がなければ出発はしない」と神田は言っていたが、だとしたらやはり太平洋上空で彼の身の上に予想外の出来事が降りかかり、急激に状況が変化したということになる。流れ着いたこのゴンドラをぼくは神田に見せてあげたかった。』

 

▼報道写真

安田菜津紀「世界の子どもたちと向き合って」

写真で伝える仕事 -世界の子どもたちと向き合って-

写真で伝える仕事 -世界の子どもたちと向き合って-

 

報道写真家を目指したきっかけ。なぜ写真なのか。写真を撮る上で大切にしていることは何か。

紛争や貧困、その中に生きる子どもたちのことを写真という形で伝えたい。そのきっかけを作ってくれる一冊。

中学生・高校生に向けた一冊ですが、小学生にも、そして大人にも読んでほしいですね。

イラクの友人にこんな言葉をかけられたことがありました。「あなたが沈黙してしまったら、世界はどうなるでしょうか? その沈黙が集まり、様々な声をないものとして扱ってきたのが、今の世界の姿なんです。」

ひとりの人間として、沈黙ではない道を選びたい、と強く感じた言葉でした。』

 

山本美香「ぼくの村は戦場だった。」

ぼくの村は戦場だった。

ぼくの村は戦場だった。

 

ビデオ、写真、言葉。不利な立場の攻撃される側の現状をあらゆる方法で伝えた山本美香の一冊。

「ぼくの村は戦場だった。」と「中継されなかったバグダッド」を読むと、もしマスードが生きていたらと思わずにはいられない。

『目をそらしても現実が変わるわけではない。

そうであるなら、目を凝らして、耳を澄ませば、

今まで見えなかったこと、聞こえなかったことに気づくだろう。

戦場で何が起きているのかを伝えることで、時間はかかるかもしれないが、

いつの日か、何かが変わるかもしれない。

そう信じて紛争地を歩いている。』